ロマンティック街道(ロマンティッシェ・「シュ」トラーセ) まあだいたいおっしゃる通りだと思いますが... >しかし 東ドイツとの緊張がはげしくその国境に近い地域の経済発展は遅れていたので 戦前の雰囲気をたたえた街や村がそのまま残されていました。 Romantische Straßeロマンティッシ「ェ」・「シュ」トラ「ー」セは東西分裂による後進地域(?)には該当しないでしょ。あそこは産業革命あたりから発展に取り残された地域で、だからこそ昔の町並みがあり、Nördlingenのように街を囲む城壁が残っているのです。産業革命や近代の工業化に乗かった街は、市壁の中だけで土地のやりくりがつかなくなって、遅くとも19世紀の末に市壁を取り払っています。 >ウリュツブルグからウイーズまでで マリーアントワネットのお嫁入りコースとほぼ一緒です。 まず例によって地名の読みを訂正「ヴュルツブルク」に「ヴィース」。 マリーアントワネットは今映画があたって注目を集めているようですね。しかし彼女のお嫁入りにこのコースが使われたのは知りませんでした。ウィーンの宮廷からパリに行くのにずいぶんと回り道をしたのですね。途中にはハプスブルクとは相容れない新教の街もあったでしょうに。 >もともと公共交通機関が不便な所をつなげた 無理やり?観光ルートですからどうしてもスムースとはいかないのです。 ディンケルスビュールがネックですね。20年くらい前に鉄道が廃止されてからは、バスしか交響交通機関がありませんから。かと言ってルートからはずしてしまうのは惜しい気もします。 ちなみに手元にあるDB(とは言ってもまだ民営化前のDeutsche Bundesbahn ドイツ連邦鉄道です)の古い時刻表(85/86)を見るとかってはRothenburg o.d.T.からDombühl、Dinkelsbühlを経てNördlingenまで鉄道があったようです。
ちょっと付けたさせて下さい。 ドイツの東西間の緊張は壁の崩される数年前までかなり激しいものがあり スイスなどでもリヒテンシュタイン(これでよろしいですか)との国境のライン川の中に 対戦車用のバリケードがせりあがるようになっていたほどです。 ですから いま皆さんがロンマンティック街道だといって突っ走るアウトバーンは この20年ぐらいのものでした。 つまり 東ドイツとの境20キロぐらいの幅で めぼしい経済投資は一切していなかったのです。 もともと ローテンブルグにはドイツ帝国最強の連隊があったところです。・・第一次世界大戦当時ですぞ・・・。 もっともその当時は ドイツは有力貴族によるほとんど分割統治でまとまった国ではなかったようです。 外に向けては強かったですが・・。 ですから 護るに強い城壁がシッカリ残っていたのです。 ご承知のように戦前は 旧東ドイツの方が文化的にも産業的にも一歩も二歩も先を歩いていたんですから・・。 そういう意味では ライン川地区とのハザマではありましたが・・・。 ・・・とまあ すこしシツッコカッタかもしれませんね。
第一次世界大戦のころのDas Deutsche Reich >もっともその当時(第一次世界大戦当時、引用者注)は ドイツは有力貴族によるほとんど分割統治でまとまった国ではなかったようです。 外に向けては強かったですが・・。 有力貴族というとちょっと語弊がある...有力諸侯というか領邦君主というか。 大きな話をすると大変なのでこの地方に限って言うと、プロイセン王を皇帝とする連邦帝国という形態をとっていたドイツ(帝)国にあって、この地はバイエルン王国。王家はかの有名なノイシュバンシュタイン城などお城造りに没頭し散財したので、家来に幽閉されてしまったルードヴィヒ2世(この人がビスマルクのお膳立てでホーエンツォレルン家のヴィルヘルム1世を皇帝に推戴したらしいですね)や日本にもファンが多い、シシーことエリザベト・オーストリア皇妃を輩出(?)したヴィッテルスバハ家。 しかしバイエルン強かったかな? 大昔はともかく、近世に入っては負け続けじゃなかったですか? >つまり 東ドイツとの境20キロぐらいの幅で めぼしい経済投資は一切していなかったのです。 ローテンブルクが両ドイツ国境に近接していたから発展から取り残されたというなら、それより大きな街であるヴュルツブルクやニュルンベルクの方がもっと国境に近いことの説明がつかないのではありませんか。 わたしもちょっとこだわってみました。