帰国の日の朝、晩秋の柔らかな陽光が窓から射し込む部屋は、穏やかな空気に満たされていた。
現地の友人の招きで参加した、異国での結婚式。
戸惑い、発見、感動、祝福…。そんな様々な思いが交錯する濃密な時間を経験した僕は、このような機会を自分に与えてくれた友に感謝しながら、今回の旅の手応えに酔っていた。
しかし、僕はまだ知らなかった。この後さらに濃密で刺激的な時間が、自分を待ち受けているということを…。
その日の夕方、スピード感溢れるシャトルバスのおかげで思っていたより早く空港に到着した僕は、余裕綽々、売店で鼻歌交じりにキムチなどを買いつつ、旅の最後のひと時を味わっていた。
そして、そろそろかな…と思い、出国ゲ-トを通過したのが出発時間の約10分前。
その時、審査官は僕の航空券を見るや顔をこわばらせ、こう忠告したのだった。
「ここから搭乗口までは尋常ではない遠さだ。全力で走りなさい…!」
何も知らずに僕が通った出国ゲートは空港の一番端、そして東京行きアシアナ航空の搭乗口は、運悪く丁度その反対側の端だったのだ。
その事実を悟った時、ついさっきまでの余裕の表情は一瞬で鬼の形相へと豹変し、僕はキムチの袋を両手にぶら下げたまま、猛然と駆け出したのだった。
この仁川空港は、大韓民国建国以来最大の国家プロジェクトとして建設され、2001年に開港したばかりの真新しい巨大施設である。
現在、北東アジアの主要空港間では、“アジアのハブ空港”の座を巡り、熾烈な戦いが繰り広げられている。
成田、香港、上海、関空…。
仁川はそんな中に殴り込みをかけるように参戦して来ただけあって、その途方もない広大さは、もはや挑戦的ですらある。
どこまでも、ひたすらまっすぐ続く道。溢れる人の波。
残り8分、7分、6分…。
しかし搭乗口番号「90」の文字は遥か彼方、目に飛び込んでくる数字はまだ30番台…。
さすがに全力疾走を300mほども続けると、息は上がり、頭の中は朦朧としてくる。
残り5分、4分…。
脳裏をよぎるのは、数年前、実際に帰国便を逃した北京空港での記憶。
「あの悪夢だけは繰り返したくない…」
既に限界を超えた体を動かしているのは、もはやその思いだけだった。
50番、60番、70番…。
その時、少し先の80番搭乗口辺りに、トランシーバーを持ちながらこちらに向かって声を発している人の姿が見えてきた。
そしてすれ違いざま、アシアナ航空の制服に身を包んだその女性は、僕にこう囁いたのだった。
「搭乗口まであと少しです。向こうには連絡してあります。だから大丈夫、間に合います。」
罵声と怒号を浴びせられることを覚悟していた僕にとって、その穏やかで柔らかい声はまさに福音、神の声に聞こえた。
残り3分、2分…。
やがて遠くにうっすらと見えてきた「90」の文字。
そして搭乗口では係員総出でこちらの走りを注視している。
それも決して怒りや不快感を湛えた表情ではなく、親が子を見守るような、慈愛に満ちた眼差しで…。
出国ゲートからここまで、悠に1kmは走っただろうか。
ようやく到着した搭乗口。
搭乗券を機械に通し、安堵の溜息を漏らすお騒がせ日本人に対し、叱責の声を発する者は遂に一人もなく、寧ろ彼女たちは口々にねぎらいの言葉をかけながら温かく僕を機内へと迎え入れてくれたのだった。
「KOREAN TIME」 ―。
約束の時間には決して現れない現地の人々の時間感覚を指す言葉として、韓国を訪れる日本人は半ば諦め気味にこう呟く。
しかし、この「KOREAN TIME」の寛容の精神は、自分にだけでなく「他者」に対しても発揮されるのだということを、座席に深く体を沈め、呼吸が整ってきた僕はしみじみと実感していた。
アジアを代表する巨大空港を全力で駆け抜けた数分間。
その疲労は、この国の人々の大らかな精神のお陰で心地良い達成感となって、いつしか僕の全身を柔らかく包み込んでいた。
やがて滑らかに離陸するボーイング767。
窓越しに赤茶けた韓国の大地が遠ざかっていくのを見ながら、次第に僕の意識も遠くなっていくのだった…。
