インドという風土の中であの人たちは・・・ 蛇足ですが。

ジャネットさん

かの地で無為?にすごす日本の若者が多くいるということについてのもうひとつの仮説(おもいつき?)です。

ニートとよぼうと、閉じこもり(この場合は外篭もり?)とよぼうと何もせずに日を送るかに見える人を見るとそうでない人は己の価値観をゆすぶられるのか、どうしてもその人たちへの敵意をつのらせます。

群れることを本能的に選ぶヒト科は悲しいことにつねに他人との比較の中で己の場を見つけようとするので常に他人が気になります。 この比較の基準になる価値観が又人によって大きく変わるからなおさら面倒です。

ところがこのインドでは不思議なことにあまり他人に関心を払いません。 本当かどうかはわかりませんが、昔こんなことを聞いた覚えがあります。

インドのカーストは4つといわれているけれども実態は三千とも四千以上とも言われているほどあって、現代でもしっかりかの国に根付いているのだそうです。 その起源はいろいろといわれていますが、この多種多様なカーストによってかの国の人は 他人(他のカーストのという意味で)と己のあり方の比較、優劣をほとんど意識しない・・というのです。

つまり 牛、馬、スズメ、魚、いや草、木、魚、虫との区別とおんなじ形で存在するのが本来のカーストなのだそうです。(あくまで受け売りです。自分でも多少疑問ですが・・) 

こういう世界では隣人との比較はかなり限定的です。 輪廻転生という考え方以外に他の暮らしに転ずることは無いという場合は己の存在意義は何か・・では悩みません。 したがって他への干渉、あえて言うならば余計なおせっかいは生じません。 恵まれたものが恵まれぬものへの慈悲(この言葉はあくまで垂直的な行為として使っています)という行為はありますが・・。

つまりインドという風土の中には無為に見える人が隣にいてもそれは単に隣に生えている木や、花、飛んできた小鳥と同じ感覚なんだと・・。

他を意識する事無く、他人からも意識されることを忌避するこの話題の対象となる人々にとってこんなに住みよい・・過ごしよい空間社会は確かになさそうです。

ですから その場に踏み込んだ、または通りすがった<唯一神がすべての生き物の中心として己の姿に似せて創造した人間>と信じる<だからこそそのためには何をなすべきか>と思い悩む<哀しき・・断じて軽んじているのではありません、人としてのひとつの姿としての共感のなかでです>人一倍生真面目な人が感じて書いたことに思い悩むことは無いような気がします。

人は千差万別。その生涯の中でも刻々変化します。そのままの人もいるでしょうし、その中から新しいお釈迦様も生まれるかもしれません。時代という得体の知れないものの中で良くも悪くももまれ、翻弄されて生きていくのが人の定めです。 そのときそのときの現象で軽々に判断できるものではなありません。

・・とえらそうにまたまた書いてしまいました。

あの人たちがなぜインドへ、それもガンガーのほとりの混沌の中にとどまる、吹き寄せられたかの私なりの理解です。

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1件のコメント

  • 退会ユーザ @*******
    10/03/02 20:42

    Re: インドという風土の中であの人たちは・・・ 蛇足ですが。

    ぼうふらおじいさん、ご意見ありがとうございます。

    余計なおせっかいは生じない、ですか。実に示唆に富むご意見だと思います。

    よく考えてみます。ありがとうございました。

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