レポート

フランスへ行ってきました 2019

公開日 : 2019年12月29日
最終更新 :

5月下旬から6月上旬にかけて、行程は以下のようにしました。
(行ったのは初夏ですが、延び延びになっていたのをようやくまとめたので投稿します)

日本出発
パリ乗り継ぎ、ビアリッツ(Biarritz)空港
サン・ジャン・ド・リュズ(Saint Jean de Luz)(フランスの美しい村サール Sare、エスプレット Espeletteなど観光)

ボルドー(Vaubanの要塞 フォールメドック Fort Médoc観光)

トゥールーズ(市内観光)

ロカマドゥール(Rocamadour)

フィジャック(Figeac)

コンク(Conques)

ロデズを経由してトゥールーズ

ベジエ(Beziers)(ミディ運河の7連続水門見学、セートSete観光)

ペルピニャン(Perpignan)(Vaubanの要塞 Villefranche-de-Conflent、フランスの美しい村Villefranche観光、コリウールCollioure観光)

スペイン バルセロナ(サグラダファミリア観光)

アムステルダム乗り継ぎ、帰国

以下に見聞したことなどをレスの形で続けます。
(必ずしも行程の順とは一致しない。)


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8件のコメント

  • 19/12/29 21:12

    8)カタラン(カタルーニャ語、仏語でcatalan)

    バルセロナを観光して、バルセロナ空港から帰国する日になった。KLMオランダ航空でアムステルダム乗り継ぎである。

    搭乗したが、飛行機は30~40分以上動く気配がない。その内、機長から機内放送があったが、ぼんやりしていたので最初の英語を聞き漏らした。英語の後はスペイン語、次いでオランダ語のようだ、最後は聞き慣れない言葉で終わった。

    放送を聞いて、右隣の若い夫婦が、反応して何かしゃべっている。搭乗から二人の話している言語は聞いても何語かわからなかったが、この人たちは放送はよくわかったようだった。
    二人に、英語で、放送はどんな内容だったのか尋ねると、空港の上空が混んでいるので、出発が遅れるとの放送だったとのことだった。

    お二人は、国籍はどこかと尋ねると、スペインだという。でも、お二人が話している言葉はスペイン語ではなさそうだし、どういう言葉かと尋ねると、カタランだという。(仏語でもcatalanと綴るようで、日本ではカタルーニャ語という方がわかる)
    二人はバルセロナ出身で、バルセロナ在住だという。(オランダに旅行にでも行くのかも知れない)
    家や友人などバルセロナの日常ではカタランで話すが、スペイン語も話せるという。
    フランス語はわかるのかと聞くと、フランス語は聞けばわかるが、話すのはちょっと苦手だという。

    この話を聞いて、450年以上前に国境が変わってフランスに併合されたペルピニャンを中心とするルシヨン地方の人は、内陸の方では、日常の家庭や友人との会話はカタラン(カタルーニャ語)でやっているのだと理解した。ピレネーの要塞周辺で聞いた言葉はカタランだった。事情はバルセロナとよく似ている。

    そういえば、ルシヨン地方でよく見かけた州の旗の模様は、黄色と赤の縞模様で、バルセロナでもよく見かけた州の旗も模様は黄色と赤の縞模様で、旗の形はちょっと違うが、模様は全く同じだ。フランスではごくマイナーな地方だが、伝統は引き継がれているようだった。

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    バルセロナ と アムステルダムと聞くと

    わたしのあたまに1ばんにわくのがヨハンクライフ。 かれもこの飛行機に何回ものったのかも。

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  • 19/12/29 21:04

    7)Vaubanの要塞、 Villefranche-de-ConflentにあるFort Liberia (その2)

    麓まで降り、Villefranche-de-Conflenの村の方に歩いて行くと、右側の崖の岩盤にぽっかりと洞窟の入り口のような穴があった。
    幅1.5m、高さ2.5mほどで、遺跡か何かの洞窟かと思ったが、入り口に金属の銘板がはめ込まれている。
    近づいてみると、「ナポレオン3世の階段」と書かれ、完成年度が記載されている。
    それで思い出した。
    フランス革命の後50年以上経って、ナポレオンの甥の軍人であるルイ・ナポレオン(後にナポレオン3世と称す)が仏政府の実権を握ったとき、この要塞に秘密の抜け穴が必要として、要塞から下まで地下の階段を掘らせたとの記述があったが、要塞見学の時は入り口がわからなかったし、塞がれているのかと思っていたが、ここが下の入り口らしい。
    ネットの説明によると、「ナポレオン3世の階段」と呼ばれ、「ナポレオン3世の1000階段」とも言われているらしい。

    入ろうとすると、道の反対側にテーブルを置いて何のためにいるのかと思っていた人から、「ムシュー」と呼び止められた。
    テーブルに近づいて、あの入り口はナポレオン3世の階段か、と尋ねると、そうだという。要塞まで繋がっているのかと尋ねると、その通りだという。入るには、料金がいると言う。
    いま、要塞に行って降りてきたところだし、入場券の半券も持っていると言って、見せると、OKです、要塞まで行くなら、頑張って下さい、という。

    200mの高低差を又登ることにした。

    途中、だいぶ登ったと思う頃、地下のホールのあるところまで来ると、井戸があった。金網で蓋がしてあって、中は暗いのでどの程度の深さがあるかわからない。
    このホールは、壁の状態や階段の状態から、建設時からあるもののようだった。ナポレオンの階段はこの場所までが新しく掘ったもののようだった。

    そこに中年の男性の二人連れが上から降りてきて、ボンジュールと挨拶すると、フランス人のようで、「ボンジュール、下から登ってきたのですか、上まではもうすぐです」という。私に話しかけるときはフランス語だが、二人で話しているときは、土地の言葉らしく、聞いても、意味は聞き取れない。スペイン語でもないし、フランス語でもなさそうである。

    入り口の受け付けのお姉さんのところに来たので、「一旦外の道を降りて、下の道路に階段の入り口があったので又登ってきた」というと驚いていた。
    要塞内部からは、階段の入り口がわかりづらい、と話していたら、さっきの男性二人連れがやってきて、話に加わった。二人はお姉さんとは最初フランス語で話していたが、すぐに土地の言葉で話すようになり、このお姉さんも土地の言葉がわかるようだった。フランス人三人で話すときは土地の言葉、私と話すときはフランス語となった。

    帰りは又階段を降りて、村に向かった。結局、要塞まで2回上り下りしたことになる。

    Villefranche-de-Conflenの村は「フランスの美しい村」として、村を囲む城壁が残っていて、たたずまいはまずまずの雰囲気の、落ち着いた村だった。観光客もある程度来ていた。

    村の店先で、土地の人らしい女性が立ち話をしているが、何語かわからない言葉で話している。フランス語っぽいところもあるが、土産物を見る振りをしてじっと聞き耳を立てても、どうしても意味がとれない。

    村の観光案内所で、ペルピニャンに行く路線バスがこの村のバス停に停車するのを教えてもらったので、帰りは国鉄駅まで歩くと15分以上かかるのでやめて、路線バスにすることにして、バス停を見に行った。
    もう夕方で、そこには、ちょうど、要塞の受付のお姉さんが、仕事が終わってバスを待っていて、ここからバスで帰宅するところだった。歩いて降りたのですかと尋ねると、従業員は車で下ろしてくれます、とのことだった。家は、ペルピニャンとは反対の方向で、奥の方に入った村だという。ペルピニャン行きのバスの時刻表はこれです、とバス停の表示を教えてくれた。

    この地方で、家庭で日常話されている言葉は、フランス語ではなくて、カタルーニャ語というものなのか? 疑問を持ったが、つぎの日の朝、バルセロナに移動する予定になっている。

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  • 19/12/29 20:48

    6)Vaubanの要塞、 Villefranche-de-ConflentにあるFort Liberia (その1)

    ルイ14世の時代に、戦争によりスペインとの国境がそれまでより西のピレネー山脈の中に移動したことにより、新たに要塞が必要となったので、当時要塞建設を担当していたVaubanという人に、この方面を守る要塞の建設を命じた。

    Vaubanは、現在アンドラ国となっているところからペルピニャンに至る道の途中に、上流からMont Louis という要塞と、下流に今回見学した Fort Liberia の二つの要塞を作った。1680年代の建設である。(日本では徳川5代将軍綱吉の頃)

    要塞 Fort Liberia は、建設から100年ほど経過したフランス革命時代の1790年代末期に、フランス王を処刑した革命を、ただの暴動とみていた、革命を潰そうとする周辺国スペイン王の軍から砲撃を受け、革命軍の守備兵は降伏している。
    この要塞は近くに山があり、その頂上を占領されて、そこから撃ち下ろされる大砲の砲弾により被害を受け、革命軍の大砲は、下から撃ち上げる位置関係で、その頂上までは大砲の弾が届かなかったそうである。
    上からと下からでは飛距離に雲泥の差がある。

    建設当時、Vaubanはこの山の存在を十分承知していただろうけれど、建設時の大砲の射程距離では、その山から要塞までは砲弾が届かないとみていたのではないかと思われる。100年も経てば大砲の射程距離は格段に伸びるのは、Vaubanも予想しなかったか、、、。

    行き方は、ペルピニャン発の電車でピレネー山脈の中に入っていき、Villefranche-de-Conflentで降りる。この日は線路工事のため、代替バスを利用した。

    登り口がわからないので、駅員に、Fort Liberia に行く道を尋ねると、広場にある看板にある電話番号に電話すると車が迎えに来るし、歩いて登る場合の道はあちら、と教えてくれた。(迎えの車は10ユーロ程度の料金となっている)
    車の上る道と、砂利道と階段が交互に続く直登する道があり、砂利道と階段の方を上る。
    下から要塞の城壁が少し見え、標高差200mを超えそうである。
    登っていくと、それほど遠くないところにピレネーの峰が見え、山肌は雪が消え残って、まだら模様になっている。

    要塞の中は、地上には小規模の建物があるが、地下に降りると、地下道とホールのような地下壕広場が複雑に入り組んだ状態で、狸の穴じゃないが、迷子になりそうな状態である。
    地下壕は、斜面に沿って地下に掘り進められたらしく、階段が上り下りするところがあり、ホールからは鉄砲を撃つ穴が、外を向いている。穴から見る外は山の斜面で、林となっている。

    城壁の上には高さ1mぐらいの手すりがあるが、レンガ造りである。
    受付のお姉さんに、城壁の手すりはなぜレンガなのか、建設から後になって、何らかの原因でレンガで修復したのか尋ねると、Vaubanの建設当時からレンガで、Vaubanは手すりを石で造ると、大砲の弾が当たって手すりが破壊され飛び散ったとき、破片が兵士を深く傷つけるが、レンガだと鋭い破片にならないので、レンガがよいと考えたとのことだった。

    帰りは階段を降りるのがいいと、受付のお姉さんに言われたが、どの階段を意味しているかわからなかった。来た道を、階段と砂利道を歩いて降りた。
    降りたら、この要塞の麓にある「フランスの美しい村」の Villefranche-de-Conflenという村に行くつもりである。
    (続く)

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    19/12/30 09:37

    山間の要塞

    アンドラに向かう途中、ピレネー山間の要塞を、何か所か見ましたが、私には、面白くありませんでした。
    mamoruさんは、いかがだったのでしょうか?

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  • 19/12/29 20:25

    5)ミディ運河の7段水門

    ミディ運河はトゥールーズのガロンヌ川(下流でボルドーから大西洋に注ぐ川)から発して、カルカソンヌを経て地中海側のセート(Sete)に至る運河である。

    途中、地中海に近くなったところにあるベジエ(Beziers)という町の西3kmの地点で21mぐらいの高低差の、地中海側に降りていく傾斜地があり、ここに連続した水門(閘門とも言う)を設けて、順に開いて船を行き来させていた。
    従来はここには9個の連続水門があったが、2017年に下の2個を水路改修して、連続は7個、数百m下流に高低差の大きい水門1個としたそうだ。旧来の最後の2個のある場所は水路が入り組んで船の通過が容易ではなかったための改修だったそうだ。昔は技術的には高低差3m程度までが最大で、従って、連続した水門を造らざるを得なかったそうだ。

    現在でも、このあたりの地名を、8個の水門になったけれど、昔の呼び名通り「9水門」と呼ぶようだった。
    町から水門まで3kmほどあり、路線バスはなく、観光用のプチトランもあるようだったが、ホテルから歩いて行った。

    現地には観光案内所があり、水門を通る観光遊覧船があったので申し込む。
    水路を下る方向のクルーズの時間に乗る。(登るのと下るのは交互にあるが、一回の乗船はどちらか片道)
    乗船すると、運河を若干遊覧し、水門の中に入っていく。順に、水門が作動して、一段ずつ船が下がっていく。7段の水門を通過して下部の運河に到達すると、少し進んだ先にある川を渡る運河橋の中を進んでその先の船だまりのような池でUターンして、水門の下まで戻って終了である。

    帰りは、歩いて運河橋のところを通って帰った。
    石造りの運河橋で川の水面からの高さは15m程度である。川幅はかなり広く、橋の長さは150mを超しそうである。

    運河は陸の中に掘ったものだから、川に出合うと、水面まで高低差があるので、水平を保つには橋にするしかなかったようだ。
    道路の橋は真ん中が舗装道路で両側が歩道であるが、運河橋は真ん中が水路で、両側が歩道である。

    橋の下に降りると、橋のたもとの土手から水がしみ出していて流れ、みずみちが出来、河川敷(河原)では幅50cmほどの流れになって河川敷を横切り、川に注いでいる。橋の中の石の水路と運河土手との接続部分の水の封止は難しいようだ。放っておくと土手が崩れるから、おそらく一定期間ごとに修復しているのだろうけれど、漏水を止めることは出来ないみたいだった。

    ミディ運河は大西洋から地中海に、なんとしても水運をつなげたかった昔のフランス人の執念が感じられる。
    坂だろうと、川だろうと、障害物は何らかの手段で乗り越えていく感じである。(この運河、今は観光資源程度で、産業用の資材を水運で運ぶことは少ないのではないかと思う。)

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    19/12/30 08:56

    Re: 5)ミディ運河の7段水門

    私もミディ運河は好きですね。
    娘夫婦を連れて、カルカソンヌから観光船に乗ってみたが、ミディ運河は水路と木立が美しい。

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  • 19/12/29 20:18

    4)ロカマドゥール Rocamadour (その2)

    帰りはロカマドゥール・パディアック駅まで歩くつもりである。地図を見ると、約5kmある。

    ロカマドゥールからはロカマドゥール・オスピタレの集落を経由して行くようなので、朝のうちに1kmの距離にあるロカマドゥール・オスピタレまで行って観光し、どこかの店で歩き出しの道を確認してから、ホテルに戻り(徒歩距離が長くなるが、この程度を苦にしていたら田舎は旅行できない)、リュックを担いで駅まで行くことにした。
    ロカマドゥール・オスピタレまでは下の谷筋の道を行ったので、何度も折り返して進むが、ロカマドゥールの村が、崖にぴったり張り付いている様子がよく見える。

    ロカマドゥール・オスピタレの土産屋で絵はがきを数枚買って、駅までの道を尋ねると、どこから来たのかとか、日本の話などの雑談をする。年配の女性店主の後ろに10歳ぐらいの少年がいて、レジ係のお手伝いをしているようだった。
    その店のすぐ横の道を行けば、車が通るので注意は必要だけれど、別途、林の中の細い道もあるが、外国人には、ちょっと複雑な経路なので、広い道を行けば分かり易いとのことだった。

    明後日コンク(Conques)に行くと言ったら、コンクはとても素晴らしいところで、是非堪能するといいという。ロカマドゥールの人が、コンクは素晴らしいと言うからには、ロカマドゥールとは違った良さがあるらしいと期待する。

    ロカマドゥール・オスピタレはスペインのサンチャゴデコンポステーラまで巡礼に行く人が、途中病気で巡礼が続けられなくなったときに療養するための病院があったところだそうで、その建物跡が残っている。塀と、基礎石、建物が若干残っている程度である。

    ホテルに戻ってリュックを取り、歩き出したが、この日の最高気温予想は32℃で、日差しがきつい。

    40分ぐらい歩いて、道沿いに広い砂利の駐車場のようになっているところにさしかかると、向こうから車が来たので、駐車場の中によって歩くと、車も砂利の音をさせながら駐車場の方を通りだした。こっちへ行きたかったのかと思って道路の方に戻ろうとすると、私のすぐ横に車を停めて、中から年配女性が「ムシュー、駅に行くのですか?」と尋ねる。えっ、このあたりに知り合いはいないはずだが、と思ってよく見ると、今朝方、駅までの道筋を尋ねたお土産屋の女主人だった。
    駅までなら車でもう少しだから乗せてあげましょう、という。
    乗ると、レジにいたお孫さんらしい少年が、「ムシューは絵はがきを買ってくれた」と言っている。
    車はUターンして、駅に向かい、まもなく着いた。

    駅前にはホテルがあるが、尋ねると、カフェの営業はしていない、とのことだった。
    隣は一棟貸しのホテルが二棟あるが、従業員が部屋の掃除中だった。建物はこの3棟のみで、周りは林か荒れ地である。このあたりには、歩いて行ける範囲にはカフェはないとのことだった。

    グーグルマップのストリートビューにはタクシー会社の Taxi Pat の看板が見えていたが、駅前にはそのようなものは撤去されたらしく、タクシーの看板類は何もなかった。

    この2日後にコンクに行ったが、村は昔のまま現代に残ったような感じで、古い家並みがしっとりと落ち着きを持っていたし、商店も多すぎず、「フランスの美しい村」のランクで言えば、上位に入ると思われた。
    また、この村にある宝物館の、衣服に楕円形に磨いた昔の宝石をちりばめた、全体に金箔を貼った女性像も、オスカー・ワイルドの子供向け短編小説「幸福な王子」を思い出させてよかった。

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    コンクというからには

    巡礼の町(コンク貝はサンジャックのシンボル 俺たちが普通にコンクというと(私ら米国西海岸はあまり言わないけど、 フロリダ特にキーウエスト)ほら貝みたいなやつだけど、サンジャックはホタテ貝みたいなやつ))かなと思ったらやっぱりですね。

    この前Uberの創設者が辞めたけど、Uberを考え付いたのはParisでタクシーがこなかったので腹を立てたからだといっているけど フランスのタクシー会社ウーバーにくわれているのかな?

    ありがとうございます。

  • 19/12/29 20:10

    3)ロカマドゥール Rocamadour (その1)

    この村に最も近い駅はロカマドゥールパディラック(Rocamadour Padirac)であるが、バスはないのでタクシーになる。
    フランスのネット電話帳でロカマドゥール村近くのタクシー会社を調べると、Taxi Pat というのが駅から2kmほどのところに出ているが、タクシー会社のホームページはなく、営業しているかどうかわからなかった。
    次に近いのがグラマ(Gramat)という町のタクシー会社で、24hr営業、土日営業、となっている。ロカマドゥールまでは11.5kmとなっている。

    前日Toulouseに宿泊したので、Taxi Patに電話したが出なかった。それで、Gramatのタクシー会社に電話し、翌日の17時30分にGramat駅に迎えに来てくれるよう予約して、当日電車でGramat駅に降り立ち、予約のタクシーに乗った。ロカマドゥールまで24.12ユーロだった。

    ホテルに着くと、受付の人が「タクシーで来たのですか」と尋ねるので「タクシーで来たのだけれど、どうして尋ねるのですか」と聞くと、「最近、近くのタクシー会社が営業を辞めたので、ここに来るのが出来なくてトラブルになる客が多いのです」という。「やめたそのタクシー会社は Taxi Pat というのではないですか」というと、「その通りです。営業していたのは女性一人の個人営業で、高齢になったので、タクシーをやめたのです」という。

    ロカマドゥールは「フランスの美しい村」のリストに掲載されているが、中央の通りには店が建ち並び、落ち着いた雰囲気はない。観光客もかなり多く、ぞろぞろ歩いている。
    崖に張り付いた感じの村で、裏通りもほとんどなく、村の散策にはさほど時間はかからない。
    崖の上の方には教会があって(有名な教会らしい)、かなり階段を上っていくとたどり着く。教会まで上がる有料のエレベーターもある。その上は丘の上の平地があり、駐車場になっていて、尾根筋の道路を行くとロカマドゥール・オスピタレの集落に行くようになっている。(ロカマドゥール・オスピタレの集落に行く道は、谷筋をたどる下の道路もある。)

    翌朝早く目が覚めたので、村の中を歩いた。店のシャッターは閉まっていて、人も通らず、「フランスの美しい村」の感じは味わえた。昔、観光客が押し寄せていなかった時代にはこんな感じだったのだろう。
    (続く)

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  • 19/12/29 20:04

    2)フランスの美しい村 エスプレット Espelette (その2)

    バスがエスプレットに着いた。
    日本人のツアー客が観光バスで来ているようだった。この村は、ツアーのコースに入っているらしい。

    村の商店の壁には、唐辛子が縄で縛られて1mぐらいの長さにして壁にぶら下げて乾燥されている。壁一面にぶら下がっているが、この地区の一般の住宅にはそのようなものは下げてなく、どの店舗にもあるのは、観光用の看板の代わりだろう。乾燥が進んだものは赤からかなり黒ずんだ赤に変わるらしい。おそらく栽培農家ではこのようにするのだろう。

    唐辛子と言っても、日本で見るものとは違い、大きさがかなり大きく、直径は普通のピーマン程度、長さはピーマンの3倍ぐらい、全体の形は唐辛子の形である。
    建物の壁は白い漆喰塗りで、唐辛子がのれんのように壁にぶら下がっていて赤~赤黒でよく映える。

    お土産屋の店先に、唐辛子の苗が売られていた。葉っぱは、日本のピーマンとそっくりな大きさで、日本の唐辛子の葉っぱはピーマンより多少小さいと思うが(最近の栽培品種はどうか知らないが、昔見た唐辛子の葉っぱは小さかったような気がする)、フランスの唐辛子はピーマンの実の辛いものをいうのではないかと思う。

    村のたたずまいは、フランスの美しい村として、かなり雰囲気はよく(といってもこの日はあいにくの小雨で、傘を差して歩くことになった)、歩いていて気持ちがいい。

    お土産に、唐辛子入りの黒サクランボのジャムと、唐辛子の入っていない黒サクランボのジャムを買った。
    店には、唐辛子の粉を売っているが、日本の七味の中に入っているような粗挽きではなくて、完璧な微粉まで挽いた粉である。(唐辛子の粉は買わなかった)

    この地区のレストランで食事後のデザートでチーズを注文すると、チーズのほかに黒サクランボのジャムがついてくる。チーズと黒サクランボのジャムの取り合わせはとてもハーモニーがいい。

    後日、帰国してから、買った唐辛子入りのジャムをチーズに付けて食べたが(日本産のチーズだと、カマンベールとかブリーなどが合う)、辛さは強くなく、飲み込むときぐらいにほんのり口に辛みがある程度で、飲み込んだら辛みが後を引かず、粉自体は日本の唐辛子ほど辛くないのではないかと思った。
    ちょっとした辛みが味を引き立てるようだった。

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    唐辛子入りの黒サクランボのジャム

    黒サクランボというのはたぶん Cerise Noir とかいうのだろうと思って探したら出てきますね。

    https://www.amazon.com/Francis-Miot-Black-Cherry-Cerise/dp/B07SYBRCXW

    唐辛子というのはパプリカ? LAのメキシカンスーパーなんか売っている アナハイムとかカリフォルニアチリとかいうやつ?  この前 メヌードを初めて作ったときにいろいろみていて、 フランスなんかでよくあるチリとして Ancho Chille (生はPoblano)というのが書かれていたけどこれかな?

    https://ameblo.jp/chikoinusa/entry-12192976764.html



    食べてみたいです。 ああいったのをクリミーなチーズと食べるというのはチーズケーキみたいですね。

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  • 19/12/29 19:55

    1)フランスの美しい村 エスプレット Espelette (その1)

    バスク地方を旅すると、エスプレット産の唐辛子入りの黒サクランボジャムとか、唐辛子入りのイワシの缶詰とかが売られているし、レストランのメニューで唐辛子入りエスプレット風料理と書いたのを見るので、今回の旅行で現地へ行ってみることにした。

    サン・ジャン・ド・リュズに宿泊していたので、朝早くバイヨンヌまで電車で行けば、バイヨンヌ発のバスがエスプレットまで行くのだけれど(ただし、バイヨンヌ駅とバスターミナルとは徒歩15分ぐらい離れている)、ゆっくり旅を旨としている自分としては、ゆっくり朝食を取ってバイヨンヌに向かい、サン・ジャン・ピエ・ド・ポールに行く電車でCombo-les-Bainsまで行き、バス、又はタクシーでエスプレットに行くことにした。
    Combo-les-Bainsでうまくタクシーが捕まれば、電車、バスをうまく乗り継いでエスプレットと電車終点のサン・ジャン・ピエ・ド・ポールの2カ所を日帰りできそうだった。

     Combo-les-Bainsの駅に着くと、周りには離れたところに農家が散在する程度で、何もないところだった。町までは距離がありそうで、駅員のいる駅だったので、駅員に、町はどの辺か尋ねると、指さす向こうに丘があり、その上が町で、そこまでは徒歩30分ぐらい、そこに行くバスも駅前から出るとのことだった。ただし、バス時刻表を見ると、本数が少なく、時間帯が合わないので、持ってきたサンドイッチを食べてから、歩いて行くことにした。
    ちょうどお昼時間になると、駅員が、もう駅を閉める時間なので(土曜日なので正午に駅を閉めるらしい)、駅舎から出て欲しいと言われたので、ホームのベンチでサンドイッチを食べてもいいかと尋ねると、どうぞ、ホームのベンチをお使いください、とのことだった。

    つづら折れの上り道をアスファルト道路とその間を縫う階段を使って、ようやく町の中心部にやってきた。
    カフェでタクシーを呼んでもらうつもりだが、今日はあいにくカフェが閉まっていた。
    小さなレストランをのぞくと昼食時で客が多く、従業員は忙しそうだった。カウンターに行き、コーヒーを頼むのでその後タクシーを呼んで欲しいというと、タクシーならすぐそこにタクシースタシオン(タクシースタンドのこと)があるので、電話番号が書いてあるから、自分で電話できますよ、というので、店を出て古ぼけたタクシースタンドの所に行く。
    タクシー会社の電話番号が読み取れるのは1社のみで、電話すると、行き先を聞いて、行けない、という。エスプレットまでは6km程度なのだけれど、その程度の距離は商売にならないから断られたのかも知れない。

    1時間半ほど待って、観光案内所が昼食休憩の後に開くのを待って、バス停の場所を聞く。ネットでダウンロードした通りの時刻表をもらったが、さらに1時間待ちである。
    タクシーに断られた話をすると、そんなに遠くもないから断ることもあるかも知れない、といっている。
    観光案内所でタクシーを頼むことも可能だが、時間がなくなったので、サン・ジャン・ピエ・ド・ポールへ行くのはあきらめて、エスプレットだけにした。従って、タクシーは不要となった。

    あいにく、小雨が降り出した。
    (続く)

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    19/12/30 09:08

    ときの変化、

    サン・ジャン・ピエ・ド・ポールは大きく変わってしまった。
    今いっても、以前ほどの魅力は無いと思います。


    初めて行った20年前は、巡礼の起点となる家々に特徴のある、
    山あいの美しい小さな町だった。

    数年前に再訪してみた。
    大きな駐車場が設けられた大観光地になっていて、ガッカリしました。

    20年前に高級なテーブルクロス店で、バスク模様(7本ストライプ柄)のテーブルクロスを買った。
    この店がいまも有って、「20年前にも来たよ!」と店員さんに伝えて、また小さめのテーブルクロスを買った。

    わずかに、以前の面影を偲ぶことが出来た。