レポート
  • 女性
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  • 元県庁職員
  • 香川県
  • 英検2級、ロシア語教員免許、ドイツ語4級

1995年1月、阪神淡路大震災………見に行きました。

公開日 : 2021年02月28日
最終更新 :

当時、私は、香川県西部に住んでいましたが、1月17日の早朝、震度4の揺れで、飛び起きました。
バスや、船を使い、2度、震災跡を見に行きました。

あちこち、ごみの山でした。
ごみの収集が、できなかったのでしょう。

停電で、信号機が止まり、車の渋滞が、すごかったです。
誰か、素人が、交差点の真ん中に立って、手旗信号みたいなことを、していましたが、みんな、訳が分からず、すべての車が、止まっていました。

たくさんのビルが、傾いていました。
1階が、崩れたビル、1,2回が崩れたビル。
傾いていたビルは、この二つのうちの、どっちかでした。
「マンションを買うなら、3階以上にしないといけない」と思いました。
2階建ての家だと、1階が、潰れていました。
寝るときは、2階で寝ないと、いけません。

長田区にも、行きました。
一面、焼け野原で、地平線の果てまで、焼け野原が広がっていました。
映画の一シーンみたいで、現実感覚がなくなりそうでした。
あまりに凄い光景を見ると、脳が拒否して、受け入れないのです。

みなさんは、災害時には、「車で移動しよう」と思っている人が、多いと思いますが、災害時には、車で移動できません。
まず、停電で、信号機が、止まります。
車の大渋滞が、起きます。
電車も、止まります。
警察に頼ろうとしても、パトカーは、来れません。

阪神淡路大震災の後、リュックを背負い、シューズを履いて、歩くことが、流行りました。
すべての乗り物が、使えなくなるので、「歩き」しか、なくなるのです。


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2件のコメント

  • 四国へ出張でした!

    当日、夕方の便で四国へ出張でした。
    機内の窓から下を見ますと神戸の町が燃えていました。
    乗客は皆、泣いていました (TωT)
    一生忘れることが出来ません。

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  • あの時たまたま日本、大阪にいた。

    生玉神社を見下ろすおふくろのアパート(9階だったか)にいたけど大したことなかった(と思ったら 他のところは結構被害大変そうであとから驚いた)。 あそこら辺は大きな岩盤の上で、地盤が大阪でも一番いいところだとあとで聞いた。 東京で働いている妹もいたけど、 すぐ帰れと状況にあってないとんちんかん連絡を受けて帰ろうとしても新幹線が走ってなくて、 近鉄で帰った。 

    LAの地震(1994年1月17日だったのですね!)の時は香港にいて、あれに遭遇しなかったけど、帰ってルームメイトのドイツ人から話を聞いたら、地震に慣れてない彼はあの晩は外で寝たとのこと。 家の壁まだその時の亀裂まだ残ってますよ。

    震災直後野次馬は来るなと神戸あたりでいっていたと思うけど。 やっぱりそういう人もいたのですね。

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